◆付゛録゛◆

街で見かけたものたべもののこと、なるほどねーと思うことなどをつらつらと書いています。
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思うこと。

年賀状で思うこと

ee284488.jpg年賀状の季節も過ぎた。いつも年末になってバタバタ作るのだが、今年の分は計画的に作成できた。その他いろいろと思うことを。

・年賀状の送られた枚数が前年比4%減だとか。母数が40億なので結構な数だ。

・携帯メールなどでも済ませられるのでハガキは当然減る。どっちが嬉しいかというといろいろだ。携帯メールだって心はこもる。逆もしかり。

・会社の人同士もあまり出さない風潮にある。個人情報保護法やらで無駄に住所録を作らないことも輪をかけているだろう。

・宛名書きもパソコンで打ったものが多い。結構高齢の方でもそうなっているのが印象的だ。

・宛名もパソコンにまかせると、住所がどこだったかもあまり見ない。「最近は携帯に登録するから電話番号を覚えなくなったよねぇ」というのと一緒だ。電話番号は数字の羅列だが、住所は意味をもった文字列。それも意識はしなくなっていく。

・小学校にあがったばかりの甥っ子もお父さんと一緒にパソコンで絵柄を作ったようだ。子供の頃、祖父と一緒に版画を作ったのが懐かしい。

・民営化後初ということで注目もされていた。テレビCMも「年賀状は、贈り物だと思う。」というコピーで感じのいいものが作られていた。起用する数人のタレントもなかなか絶妙だ。
 郵便年賀.jp

・正月に入ってからのCMで『「年明け年賀」を書きませんか。』というバージョンがあった。年が明けてから落ち着いて書くのもいいものです、というもの。なかなか面白い思考だ。

・例年あるのだが、今年も配達車のトランクにおいたままで配達されない年賀はがきがあったというニュースがあった。


さて来年は。。。


ほぼ日手帳お試し版

06fe18e1.jpgほぼ日手帳のお試し版が再度届いた。このお試し版というのは1日1ページが特色であるほぼ日手帳の良さを知ってもらおうと、1ヶ月分だけのものを無料で配布しているものだ。

”再度”届いた、と書いたのはわけがある。以前に1度頼んだ分は届いているのだが、このお試し版で使われている紙が本物とわずかに仕様が違うことがわかり、検討の末、頼んだ人全員に再度配布されたものだ。

確かに本物と違っていてはお試し版として不十分だ。とはいえ、違いは万年筆や水性マジックで書いたときにわずかに裏移りしやすいという点だけなのだ。

私のように本物を買うついでに無料だから頼んじゃえ!という人もたくさんいるはずである。つまり使うかどうかも怪しいのだ。たかが無料、されど無料。

当然コストは馬鹿にならない。希望者にだけ再配布するという対応だって十分のような気もする。だがそこできちんと全員に配布するのが”ほぼ日”のポリシーなのだ。

ほぼ日手帳を作り始めた頃、糸かがりがほつれやすいために、お試し版ではなく本物の手帳そのものを全員に配り直したとの話も聞く。儲けなど吹き飛んでしまったことだろう。しかしそのお客様を大事にするマインドがあってこそ、今の売上1位を誇る手帳に成長したのだろう。

顧客満足という言葉で片付けるのはたやすいが、そこには芯の通ったポリシーが感じられる。単純に横並びにはできないが、企業不祥事の続く昨今、見習うべきところが多くあると思う。

ほぼ日手帳2008 お試し版


分類って難しい

たいていのblogでは記事にカテゴリを付ける事が出来る。このblogでも「ある日の出来事」「街でみかけたもの」「たべもの」等に分類している。

たまにどのカテゴリにしようか悩む事がある。「旅の途中で見かけた食べ物」なんかどれ?というように。この点、livedoorのblogについては、いつからかカテゴリが2つ付けられるようになった。これで大分悩む事が無くなった。

このように、分類というのは昔は枝分かれのイメージが強かったが、今ではいわゆるタグをつけて検索すればいいじゃん、という発想が強くなってきている。

WEBの世界ではもうそれが当たり前だ。PCのデスクトップ検索機能も充実してきたことから、PC上のファイル保管もフォルダ構成をじっくり考えて、ひとつずつ階層を下りて、という世界から離れていきそうだ。

先程昔は枝分かれ、と書いたがそのイメージが強いのが動物や植物の分類だ。類、科、目などの階層を用いてきっちり分類していく。ところがコウモリやカモノハシのような変わり種がいて難しかったりする。随分昔に出来た体系だろうからタグの概念をとりいれて新しい分類ができやしないか、なんて思ったり。

会社の組織構成も難しいもので。指示系統ははっきりしているのがいいだろうが、仕事の内容はそうそうキッチリ分けられるものでもない。縦割りだセクショナリズムだと弊害がでるわけだ。偉い人の考えひとつで縦に割ったり横に割ったりを繰り返す事もしばしばだ。

それなら、とプロジェクト制を導入しようという話も出てくる。社員一人一人のスキルを明確にし、プロジェクト立ち上げの際に必要な人材を集めようという考えはタグ付けの概念に近いものがある。まあ、これはこれで難しい面があるわけだが。

物事を整理するには体系化が大事だが、多彩なものから何かを抽出することに重きを置く場合にはタグ付けの考え方が便利なのだろう。そもそも人間の頭の中、記憶の仕組みがそれに近いように思う。

座れるかどうかが問題だ

172ae1ab.jpg最近スタバやドトールのようなカフェに行って本を読んだりすることが多い。レジの近くでずっと座っていて気になることがあった。いや、いつも気にはなっているのだが。

それは、”コーヒーを買った後に果たして座る場所があるのか”ということ。レストランや昔ながらの喫茶店だと先ずは席に通されるので、その時点で満席ならアウトだ。ところがセルフサービススタイルだとカウンターで飲み物を買っても、座れるとは限らない。

実際にスタバで座れずにしばらく店内をうろうろしたことがある。店の入口からは空きがわからないのが痛いところだ。テイクアウト用の紙のカップならまだ外に出て飲んでもいいが店内用のカップで出されて席がないとどうしようもない。

いつも混む店舗では「2階にあと×席でーす。」などと言ってくれるところがあったが基本的にはそこまでは責任持てませんというスタンスだろう。せめて混雑している時の「店内でお召し上がりですかぁ?」という質問にはそれなりの重みを感じてほしい。

大人だまし

仕事でのプレゼンや、テレビ番組のニュース解説、企業の社長挨拶文等、「何かを人に伝える、説明する行為」はいくらでもある。説明を実のあるものとするためには、話す側がいかに要点をおさえてわかりやすく話せるかが重要だ。

「聞き手が何を聞きたいか」または「話し手は何を伝えたいか」を考えず、ただ「言いたいこと」を一方的に話すケースがある。相手に何かを伝えたい、理解してもらいたい時には、当然ながらわかりやすい説明が必要なのだ。

わかりにくい説明のひとつに「言葉がわからない」「やたらと英語・カタカナ語が出てくる」というものがある。

IT用語、ビジネス用語には流行りのカタカナ語が常にあり、むやみにこれを使う事でなんだかもっともらしい説明をしたような気になっているプレゼンや説明が少なくない。今はこれを言っておけばそれっぽく聞こえるだろうというものだ。

今だと『コンプライアンス』なんて言葉が魔法の言葉のようにまかり通っている企業もあることだろう。

聞いているほうも、なんか知らないと恥ずかしいのではという思いもあり、わかったふりをしてしまったり。これではお互い思いが伝わらないままになってしまう。

誰にでも”わかりやすく”伝えるということは大変だ。言葉を選び表現を考え。時間も労力もかかる。難しい言葉を使えばいいわけではない。いかにうまく意味を伝えられるかが腕なのだ。利いた風な言葉に逃げてしまうのは少々安易だ。便利な言葉を振りかざすだけなのは「子供だまし」ならぬ「大人だまし」だと言えよう。


こどもだまし【子供騙し】
1.子供をすかしだますこと。
2.子供をだますような見えすいたつくりごと。
         〜広辞苑〜

メールの書き方の個性

いまさらではあるが、仕事でもなんでも電子メール中心に情報がやりとりされる世の中だ。

無機質に思えるテキストの連続だが、人によっての個性があるものだ。

書き出しに名前を書くかどうか。
・「○○さん」「○○様」から始まる人。これが一番多いかな。
・ヘッダーに書いてあるじゃん、ということでいきなり本文から書く人
・ヘッダーにあるのにわざわざ本文に「TO:○○さん CC:○○さん」と書く人。中にはすぐにわかるようにと件名の頭に【○○→○○さん】と入れてくる人までいる。

改行位置
・大体のウインドウの幅に入るくらいで、あとは文節の区切りで改行。これが多いかな。
・きっちり同じ文字数のところで改行する人。几帳面だ。
・どんなウインドウ幅でも対応出来るように、と文の途中では一切改行しない人。

CCの使い方
・誰を入れたらいいかを異常に気にする人がいる。中には「順番はどうしたらいいですかね?」なんて聞いてきたり。どうでもいいっちゅうの。
・質問のメールにやたらと大勢をCCに付ける人もよくいる。情報共有ということなのだろうが、聞かれるこっちは「さあ、答えてみろ」と言われているようでなんかいい気がしない。あと、ちょっと質問したメールの返事にいきなり大勢のCCを付けられるのもあまり好きではない。私はあなたの意見が聞きたかったのに。
・最近「CCから失礼します」と書き出すメールを見るようになった。ちょっと面白い気遣いだ。

文体
・誰でも多くのメールを処理しないといけないので、用件はわかりやすく書かないといけない。礼儀を忘れてはいけないが、やたらと丁寧な文章にするあまりにわかりにくいメールになっている人が少なくない。
・かといって上司からのメールが1、2行だけで来るとこれまた困る事も。余計な憶測や無駄に行間を読もうとして疲れる事もある。

シグネチャ
・昔はシグネチャは4行まで、なんてエチケットがあったように思うが、最近は量はあまり気にしないか。
・社内だと名字だけ書いてくる人がいるが、同じ社内とはいえ部署と連絡先くらいは書いてほしい。そんなにあなたの事を知らないのだよ。
・ちょっとしたデザインをあしらう人がいる。お堅い人が似合わない記号を使っていておかしくなる時がある。


いつもやり取りしている人のものだと、ぱっと見でその人のメールだとわかるようになってくるものだ。

ゴクゴク飲むのが好き

飲み物
暑い季節になった。冷たい飲み物がほしくなる時が多い。

まあ暑いときに限らないのだが、自分は冷たい飲み物をさらにゴクゴクと飲むのが好きだ。なにもビールとかに限らず水やジュースなども。

飲食店に入り、まず水を出されるとすぐさま一気に飲んでしまう感じ。何人かで行くと自分ばっかり水のおかわりを頼んでいるような気がする。喉が渇いたのでコーヒーショップにでも入ろうということでジュースやアイスコーヒーを頼むわけだが、本当に喉が渇いている時はすぐに飲み干してしまう。というか喉を潤すには量が少ないような気がする。のんびりと休憩したいのに飲み物だけ先になくなってしまうのだ。なのでウォーターサーバから水を汲んだりするわけだが、これも席に着くとすぐに飲み干してしまうので、待っている人がいない時にはサーバのところで1杯飲み干し、さらに1杯汲んで席についたりもしたり。

食事の時にアイスドリンクを頼んでもなんか量が少ないなと思うときがある。アメリカのレストランに入ってアイスティーなんかを頼むと、何も言わなくても日本で言うキングサイズみたいなのが出てくる。なんかうらやましい気持ちになったり。

なんというかゴクゴク飲むところ、喉越しというのだろうか、そこに喜びを感じているような気がする。なんていって調子にのって飲んでいるとお腹がガボガボになって苦しくなったりするのだが。

視点を変えてみよう

5fb4b420.jpg週一程度でジョギングを続けている。いつも広い公園を2周するコースだ。植物が豊富で、いろいろな風景が楽しめる公園だ。

いつもは左周りのコースなのだが、先日入口から逆に回っていく人がいたので後を追うように右周りのコースを走ってみた。そうしたところ、見える風景が今までと全然違っていることに驚いた。何度も走っているコースにもかかわらず、逆に走るだけでこんなに違っている感じるものか、と。

公園なので元々はっきりした道ではないのだが、逆から行くと曲がるポイントを間違えたり。方向音痴な方なので、いろんな道を結び付けるのが苦手なのは自覚していたが、ここまでとは。

同じものでも見る角度で印象が大きく変わること、時には視点を変えてみることの大切さをあらためて感じた次第だ。

雨に濡れずにどこまで行こう

d936f644.jpg6月に入り、これから雨の多い季節となる。雨だと通勤も面倒になるが、今の職場は駅から地下でつながっているのでその点は助かっている。都心に限らず大きな都市では地下街が発展しているところも多くあり、同じような恩恵にあずかっている人もたくさんいるだろう。

自宅のほうも地下通路で繋がって、傘要らずで通勤できたらいいのにな、なんてことはよく思う。

昨年、札幌にある会社の拠点に行ったときの事。札幌駅の地下街はただでさえ広くて驚くのだが、地図上では駅からちょっと離れて見えたのその拠点が地下通路でつながっていてさらに驚いた。

拠点の人にその話をしたところ「本社から雨に濡れずに来られますよ」と言っていた。まさにそのとおりだ。本社から駅、空港、飛行機、そして札幌の駅からこの拠点と、一度も屋根の無いところを通らなくてすむ。

日本各地、世界中に雨に濡れずに行けるところ、傘が無くても行けるところはどのくらいあるのだろう、ふとそんなことを思ってみた。まあ、タクシーでいけばどこでもいけるんだろうが、それは無し。バスを使うと範囲は広がるがバス停付近にしか屋根が無い事が多いので注意が必要だ。

結構広範囲に行けるような気がするがどうだろう。鉄腕ダッシュあたりでやってもらいたい企画だ。

痛みって思い出せない

連休中に、病院へお見舞いに行く機会があった。数年前に自分も入院していた病院なので、懐かしい気分だった。

病室の様子や食事、いろんな検査の事など思い出した。そこで思ったのだが、「どんな痛みだったっけな」と考えてもあまり思い出せないものだと。実はこれは病気だった頃も思っていた事だが、痛くてしょうがないものも一時病状が落ち着くと忘れてしまう。思い出そうにも思い出せない。そしてまた症状が出てくると「うわっ、きたきた。この痛みだ、これこれ。」となる。あの時の痛みだ、というのはわかるので記憶にはあるわけだ。

視覚や聴覚、味覚で捕らえたものは思い出せる。嗅覚は微妙なところ。触覚も手で触った感じなどは何となく思い出せるが、たまにしかない内臓の痛みなどはなかなか思い出せない。

昔見聞きした風景や音楽には、当時の様々な記憶を思い起こさせる効果があるが、匂いにもその効果が強いという話を聞いたことがある。

感覚と記憶の間の関係は奥が深そうだ。
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