ブログもご無沙汰になってしまった。連休もあったので少し落ち着いて書いてみる。

書こうと思っていることはいろいろあるのだが、まずは東日本大震災に触れておく。大した情報はなく長いが自分メモ代わりに。

・3月11日の14時46分。会社の自席でメンバーと話していた時。汐留のビルの4階。体験した事のない大きな揺れが起きる。ただならぬ雰囲気。対岸のお台場方面で火災が起きて黒煙があがった。
・すぐに社内で安否確認やら各拠点の状況確認がなされる。電話が通じない中、メールは普通に使える状況にいろいろと感じる。
・電車が止まり、帰宅はどうするかという状況。結果的には夜遅い時間に地下鉄が動いたため、難なく家に帰り着く。
・金曜日はまだことの重大さがわかっていなかった。土日にテレビで見る津波の様子に額然とする。
・茨城の実家の様子がわかったのは土曜日の昼。とりあえず無事であることに安心する。
・土日にある程度の防災グッズを揃える。電池や懐中電灯、水などはさすがに品薄になっていた。とはいえ、テレビやネットで見る悲惨な状況と普段とあまり変わらぬ近所の様子のギャップを感じたり。
・日曜の夜に電力不足の問題がニュースに。「輪番停電」「計画停電」という聞いたことのない言葉がテレビで飛び交う。実施内容のわかりにくさに混乱する。
・月曜日は早目に会社へ向かう。やはり鉄道は混乱。出社できない人達も多くいた。節電のため照明を落とし、停電に備えて早目に帰宅するという状況。通常通りの業務は困難な一週間。
・地震直後からTwitterが活躍したのは言うまでもなし。連絡を取り合うだけでなく、情報の共有に役立った。「拡散希望」という文字が有名人のツイートにも目立つ。RTと公式リツイートの議論が展開いされたのも印象的。
・テレビも報道特番が終わってからもしばらくはL字表示が続く。枝野さんの会見、原発の状況を知るためにテレビをつけておく日々が続く。
・学生時代の友人など東北出身者が多く、避難生活になっている人もいた。とりあえずの無事がわかったのはなにより。
・会社で被災地支援の活動があり、参加することに決める。仙台と牡鹿半島を往復する生活が一週間続いた。途中、海の近くを通る時に生で見る瓦礫の山には気が遠くなる思い。ただ、出会った被災者の方は日数が経っているからか比較的明るい表情をしている人が多かったのが印象的。この人達のために自分は何が出来るのだろうと考える。
・一時的に食料品がスーパーからなくなった。必要以上に買い込んでしまうのも仕方のない話だ。停電生活の可能性、放射能汚染、何を備えておけばよいか戸惑うことが多くありすぎた。
・「自粛」という言葉も多く聞かれた。マスコミが逆に煽り過ぎ?と思うこともあった。
・余震がけっこう続いた。緊急地震速報が続き、落ち着かない日も度々あった。
・「がんばろう日本」の「がんばろう」は諸外国ではどう解釈されているんだろう、と思ったり。

で、5月に入った今。

・東京では電車も普通に動き、停電もなくなり、テレビ番組もいつも通りの普通の生活。余震も少なくなった。いろんな意味で復旧が早い一方、これでいいのかと言う思いもよぎる。会社の業務もいつもどおりなのはいいが、こんなことしている場合なのか?とも。
・各企業で災害対策、事業継続などの検討もされたことと思うが、徐々に熱が冷めてきた頃かもしれない。どんな災害のリスクをどれだけ考えておくか、に正解はない。
・復興のための予算と原発が当面の話題。東電や菅内閣への批判が大きい。信頼回復には相当な時間と労力がかかる。
・夏の電力は如何に。節電を煽り過ぎて熱中症の死者が増えては元も子もない。電力の配分、労働のあり方を大胆に変えていかないといけない時がきているのかもしれない。